昨日ね

昨日、生徒さんのYちゃんが赤ちゃんを産みました。私の教えている変な呼吸法(ちゃんとした呼吸法なんだけど、私が説明するとなんだかおかしいんだよね・・・)で、40分で産んだらしい。やばい。すごいよね。自分のお産も楽しみになってきた。安産でなにより。ほんとよかった。嬉しいよー。
そして、同じ日、旦那さんの誕生日でした。
お手紙と1ヶ月ほどかけて取り寄せていたものをプレゼントしました。いつもなんでも話してしまうので、1ヶ月もそういう準備をしていることを黙っていることが疲れました。
結局、取り寄せていたものがきてから、毎日、「誕生日プレゼントほしい?」と聞いてばかりで、全然サプライズになりませんでした。
お金がなくて、お互いになにもプレゼントできないときから、カードを渡す習慣はあったのですが、出会ってから今回の誕生日まで、人生の半分以上を一緒に過ごしているなと驚いたことを書きました。
ずっと好きだったわけでもなく、ずっと楽しかったわけでもないのに、今までのことをいざ何か書こうと思うと、いいことしか思い出せず、なんだか不思議な気分になりました。
で、それがなんだろうって考えてた。
すっごい若いときの私は、とにかく闇闇、病み病み、嫌み嫌みな自分だったので、誰かを愛すとかそんな次元で生きてなかったなー。自分探しのたびで路頭に迷い、かまってちゃんで、誰かに愛して欲しくて自己犠牲に使命感を感じてしまうほどです。
ようそんな人と一緒に遊んでたよなーと、ほんとに奇特なお方です。
最近、「素直であること」についてよく考えるんだけど、それと繋がったんだ。
素直を辞書で引くと、様々な意味が出てくる。
そして反対語もあるよね。「強情」「ひねている」など、要は、自分自身が変わることができない人のこと。ってことは、「人に変わってほしい」人なんだよね。
うまく言えないけど。
例えば、誰かを好きになる。
その人が時間にルーズな人だった。
その人が人間関係にルーズな人だった。
その人がお金にルーズな人だった。
その人がルールにルーズな人だった。
それぞれ何かしら自分とは違う価値観はあるだろう。
もちろん自分の許せない枠だったり、許容範囲は人によってあるだろう。だから別れたり、一緒にいたり。
でも、私は、その人を許すとか、許せないではなくて、そんな人を好きな自分が許せない。そんな人を受け入れている自分が理解できない。要は変われないんだ。
もちろん時間は守ってほしいし、人間関係も大事にしてほしいし、お金も大事にしてほしい。でも、それは私の人生ではないからどう伝えていいのかわからなかった。
家族ってさ、家族だから余計そんなこと思っちゃうんだよな。でもさ、自分の家族だろうが、自分の子供だろうが、自分ではない人間なわけで、だれからも評価される必要なくね?だれからも批評される筋合いなくね?だれからも否定される必要なくね?ってこと。
自由だー!です。
家族だろうが、他人だろうが、友人だろうが、近所の人だろうが、好きなレストランの人だろうが、習い事の先生であろうが、「こうあってほしい」、「こうしてほしい」、「そんなことしないでほしい」。そんなこと考えるのは、評論家のすることで、やりたいことをする人にとっては、どうでもいいことなんだ。やりたいことしてる人て、とにかく何からも学ぶ。「自分のために」。
人のことに口を出すのは、「自分にやりたいこと」がないからなんだと痛感する。
すると、人にとやかく言われても気にならなくなった。人にとやかく言う人は、人にとやかくいう人の問題を自分で自分に言っているだけなのであって、言われた人が問題だと思わない限り、問題ではないからだ。
じゃ、どうする?
ヨガのクラスを教えていて、目の前に心身冷え冷え、代謝ずるずる、心身カチカチ、そんな人を目の前にして。
なにか言いたくなる。でも、その人にとっては、何十年も「普通」の状態だから困りもしてないのよ。「元気」のイメージが自分にないから。「元気」が他人事なわけ。
難しいね。
でね、いいこと思いついたんだ。
私こんなことできますよ。私、こんなこと知ってますよ。そんな私の中の情報を書き出してるの。で、ノートにまとめてみた。その中で自分に必要なこと自分で見つけてねってノート。クラスの時に見てね。
いろんな勉強したり、トレーニング受けたり、鍛錬してきたこと、出会ったご縁、様々ことが私の中に詰まっています。それを棚卸し。
そんなことしてるとさ、また新たな学びたいことや、知りたいことが出てきた。おもろーい。
身体もそうだけど、頭の中も「循環」って大事だね。
そうやって循環させるとね、身体は自然と浄化され、頭は素直に物事を捉え、発信し始めるような気がする。
素直って大事だなって思った日でした。 
素直って奥深いなと思った日でした。